知られざるトマトの歴史~南米からヨーロッパ、そして日本へ~

知られざるトマトの歴史~南米からヨーロッパ、そして日本へ~

トマトの原産地は現在のペルーを中心としたアンデス山脈と言われています。そんな南米の地で生まれたトマトはどのようにして世界に広まり、地球の裏側にある日本で食べられるようになったのでしょうか。

歴史の始まり、トマトの故郷アンデス山脈

トマトの歴史は現在のペルーを中心としたアンデス山脈周辺からはじまります。

アンデス山脈は太陽の光が強く、年間降水量が平均100m以下と、一年を通じて乾燥した地域です。今でもトマトが比較的乾燥を好む野菜なのは、このことが関係しているのでしょう。

このトマトはその後人間や鳥によってメキシコに運ばれ、その地ではやがて栽培されて食べられるようになったと言われています。

大航海時代にヨーロッパへ

こうしてアメリカ大陸ではある程度広まっていたトマトでしたが、ヨーロッパに伝わったのはわずか400年ほど前、コロンブスの新大陸発見に端を発する大航海時代でした。 1529年にメキシコに上陸したコルテスがヨーロッパに初めてトマトを伝えた人物と言われています。

ところが、当時のトマトはべラドンナという有毒植物に似ていたことから毒を含んでいると思い込まれ、鑑賞用としてのみ用いられました。

しかし、しばらくして当時のイタリヤの貧困層のなかにそれを食べてみる者たちが現れました。さらに彼らは徐々にもとのトマトを改良し、酸味を弱めたより食べやすいトマトを作りだしていきました。

そして18世紀になってようやく現在のものに近いトマトがヨーロッパで食用として広まり始めたのです。イタリヤではそれまでパスタソースには羊のおろしチーズや黒コショウが使われていましたが、18世紀に食用として広まり始めたトマトソースがそれらに代わるものとして広まっていきました。

ベラドンナ

ナス科の有名なアルカロイド植物で毒を全身に持ち、ギリシア神話の運命の女神のひとりで運命の糸を断ち切るアトロポスにちなんだ名がつけられている。オオカミナスビという薬草としても栽培されている。

コルテス

スペイン人のコンキスタドール(征服者)の一人で、1521年にアステカ王国(現在のメキシコ)を征服した人物。

スペイン国王カルロス1世の命を受けて大陸にあるアステカ人の征服に向かった。1519年、メキシコに上陸、現在のベラクルスを最初の植民都市として建設して拠点とし、そこから内陸のアステカ王国の首都テノチティトランに進撃した。

トマトはいつ日本に伝わった?

日本にトマトが伝わったのは江戸初期と言われていて、狩野探幽が「唐なすび」として、1668年にスケッチしています。また、貝原益軒の『大和本草』にも「唐ガキ」と紹介されています。

江戸時代にはヨーロッパに伝わった時と同様に、食用としては扱われず、観賞用としてのみ扱われていました。そのため日本料理にトマトが扱われることはなく、食用になったのは大正時代になり、洋食文化が広まり始めてからでした。

日本でトマトを始めて栽培したのはカゴメ創業者の蟹江一太郎氏だと言われています。蟹江市太郎は、兵役を終えて帰郷した翌1899年に自宅の脇に、トマトをはじめさまざまな西洋野菜の種を蒔き、やがて収穫した西洋野菜をホテルや西洋料理店に販売。

さらには独自に開発したトマトソースを大ヒットさせるなど、トマトを使った事業を次々に拡大し、トマトを日本人の食事に定着させていきました。

狩野探幽

江戸初期の狩野派の画家。幕府の御用絵師として活躍し、日光,芝,上野の徳川家霊廟の装飾や、江戸城、大坂城、二条城、名古屋城、京都御所、など当時の名だたる建築の障壁画制作を担当した。

大和本草

江戸前期の朱子学者かつ本草学者であった貝原益軒が、独自の分類法に従って和漢洋の動・植・鉱物1362種について、名称、来歴、形態、効用などを体系的に記述した著。

江戸時代における第一級の博物学的研究書であり,図版が多く使われるなど、学問はより多くの人に伝えられるべきだとする益軒の考えがよく表れた著になっている。

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